ゆるりessay


ゆるりを始めてもう9年が経とうとしています。

今まで、お客様や、新聞や雑誌などの取材で、何度も何度も受けた質問・・・「なぜ、石窯に薪で、パンを焼こうと思ったのですか?」「この店を始めようとしたきっかけは?」「この家は、もともと何だったのですか?」。きっと聞かなかったけど、知りたいと思ってくださった方もいらっしゃるのでは、と思います。そして、いつも一言で説明できず、何となくで答えてしまったり、ちゃんと伝えられずにいました。昨年から店に入った息子にすすめられ、思い切って、下手な文章ですがエッセイにしてみました。


ゆるりと私と・・・

 

1.あたたかな場所

 

 

 

私の幼いころの遊び場は、家の前にあった祖父の作業小屋でした。私は、幼稚園や小学校から帰ると、祖父や大工さんとおしゃべりしたり、板や端材や道具で遊んだり、近所の子とかくれんぼをしたり、自由にのびのびと過ごしていました。

 

祖父は、とても口数少なく、やさしくて、穏やかな人でした。でも、ノコギリやカンナを持つと、顔は途端に真剣に変わりました。屋根の上も、木の梯子も、軽々と登り、セメントをこねて土間を塗ったり、土をこねて壁をぬったり、ペンキも塗ったり・・・よく働く力強い祖父の姿、日に焼けた大きな手を、今でもよく覚えています。

 

小屋は、廃材の黒いトタンがパッチワークのように張り合わせて作ってありました。所々に空いた釘穴や隙間から、外の光が差し込む光景、いろんな太さの光線が大好きでした。小屋の中には、電球がひとつぶら下がっただけで薄暗く、奥の方には、怖いような「暗闇」がありました。雨や外で仕事の日は、誰もいない寂しい、つまらない小屋になりました。そして、夜は、外灯がひとつ、猫が集まる賑やかな小屋でした。

 

いつからか、小屋に行くことは、ほとんどなくなり、私が大人になるころには、祖父も亡くなり、小屋は、取り壊されてしまいました。その時は、なんとも思わなかったのに、年月が経ってから、もう一度行ってみたい、寂しいと思うようになりました。今でも思い出すと細かいところまで浮かびます。心に残る大切な場所です。

 

私が店をはじめようと思ったとき、小屋のような建物がいいと考えていました。小さな小屋の中で、手作りの石窯で、素朴なパンを焼く。大きなテーブルが一つあって、焼き立てパンとコーヒーを楽しむ店。そんな構想でした。二箇所ほど候補がありましたが、納得できずにいました。その時に、父と兄から、叔父が残してくれた古い家はどうかと提案がありました。

古民家は好きでしたが、広い場所でカフェを開くことは、想像もしていませんでした。でも、設計士さんや大工さんと出会い、一緒に働いてくれるという友人、家の事を助けてくれるという夫・・・、たくさんの人が力を貸してくれて、背中を押してくれて「ゆるり」ができていきました。

叔父が残してくれた、この古い家は、昭和元年、今から約95年前に建てられました。

 

戦後まもなく、私の叔父が、この家に婿養子としてやってきて、会社勤めと農業をしながら、真面目に穏やかな人生を送りました。病気の奥さんのためにとバリヤフリーの新居を建てましたが、奥さんは、早く亡くなってしまいました。叔父は、奥さんが亡くなった後も、この古い家を奥さんの形見のように大事にしながら、十年も一人で過ごしました。「壊したほうがいいのでは」という周りの声にも、「自分が生きている間は、壊さないで欲しい」といい、この家のことを、弟(私の父)に託しました。

 

新しい家があるのに、いつも古い家にいて、机に向かい、筆で字を書いていた叔父。春になると農機具小屋(今の石窯の作業場)は、燕のための部屋になり、三つも四つも巣ができて、ひなの声が賑やかで、「燕のために戸の隙間を開けておく」というやさしい叔父でした。

 

この家にいると、叔父が大切に守ってきた理由がわかるような気がします。奥さんの育った家、そのお父さんの育った家、自分を守ってくれた家・・・。店を始めたとき、たくさんの近所の方、昔この家によく遊びに来たという九十歳のお婆さん、いろんな方が喜んでくれました。叔父も喜んでくれているかな、「ゆるり」を見て欲しかった、と思います。

今、「ゆるり」に訪れた方々が、「ゆるり」を思い出したときに、あたたかな気持ちになってもらえたら、そして、つらい時も元気がない時も、やさしく包み込む、そんなあたたかな場所になれたら、本当に素敵だなあと思っています。

 

 

2.やさしいパン

 

 

 

「なぜパンを焼くのか?」と質問されたら、迷わず「パンが好きだから」と答えられるほど、パンが好きです。物心ついたころから、ずっとパンが好きでした。

 

若いころドイツに機械加工研修に行っていた父が、ドイツで食べたバゲットが美味しかった、そのバゲットに近いものが食べたいとよく言っていました。気に入ったものは見つからなかったようでしたが、日曜の朝はいつも、バゲットにバターとチーズを挟み、レモンティと一緒に食べました。今でも、この食べ方が好きです。私のパンの原点のようなものだと思っています。

 

でも、「ゆるり」には、バゲットはありません。石窯焼きバゲットを並べるのが夢でもあるのですが、未だ叶わずにいます。いつか、父が「これだ」というような、バゲットを焼けるようになりたいと思います。

 

今は、できるだけ、バゲットのようにシンプルで小麦の味がするものがいいと思い焼いています。小麦粉と天然酵母と塩、それを水で捏ねただけのパンです。いろんなパンを焼きますが、一番食べてもらいたいパンです。 

 

二十代の会社勤めのころ、時間に追われて余裕もなく、スーパーやコンビニで買ったパンを息子たちの朝食やおやつによく食べさせました。手軽でこぼれにくい、腐りにくい、夜でも買える、そして喜ぶ。原材料を見ることもなかったし、気にも留めず。息子たちも健康で心配もありませんでした。

 

でも、これではいけないと気が付いたのは、自分が病気になったときです。渡された小さな薬、頭痛薬よりずっと小さな一粒でした、でも、それを飲んだ数分後に、胃が熱くなり、それから頭に、そして手足、指先と、あっという間に巡っていき、体すべてに広がりました。薬が特殊であったとはいえ、胃に入ったものは、体中に届くのだ、という体験をし、食べ物の大切さを知りました。

 

パンの中に入れるもの、入れなくていいもの、をよく考えて、毎日食べても体に負担が無いようなパンと、体にいい具材を使ったパンを作りたいと思っています。そして、何より、食べてホッとできるようなパン・・・お母さんが握ってくれたおにぎりのようなやさしいパンを焼きたいと思っています。

 

今、一番下の息子が、農業高校で、作物や発酵、畜産などいろんなことを学んでいます。年に数回、寮から帰ってくるたびに、知識が増えていて、私にいろんなことを教えてくれます。私は、知らないことが多く、間違ってきたことが多いことを知ります。いつか、パン職人になりたいという息子の将来は、とても楽しみです。いつか麦や酵母にこだわった最高のバゲットを、と期待しますが、息子は息子の人生を切り開いていっていいと思います。

 

そして、上の息子もまた、コーヒーの焙煎に挑戦しています。ガスコンロや七輪、石窯でも焙煎しています。同じ材料、同じ時間、同じ色なのに、風味が違う。なぜか、石窯のものは、やさしく、香りもよい。理由もまだわからず、手探りしているところですが、コーヒーもまた奥が深く、学ばなければならないことが多いようです。

 

「ゆるり」を受け継ごうとしてくれている息子たちに、私が教えられることは少ないです。

たくさんの人から学んで、成長してくれたらと願っています。

これから面白いこと、たくさんありそうだなと、わくわくしています。私もまだまだ、学びたい。できることは少ないけれど、少しずつ挑戦したいと思います。

 

 

3.火の温もり

 

 

 

「ゆるり」の一週間は、冷めた石窯に薪で火を焚くことからはじまります。

 

小さな石窯ですが、パンを焼くために必要な300℃の熱を蓄えるには、6、7時間かかります。営業日の朝に焚いていたのでは、到底間に合わないので、前日から焚き始めます。週四日営業ですが、火を焚くのは週五日・・・夏場は大変ですが、しっかり焚いて美味しいパンを焼きたいと頑張っています。

 

「なぜ、石窯を作ろうと思ったのか?」とか、「なぜ、薪でパンを焼こうと思ったのか?」という質問をよく受けます。これが、私自身にもはっきり「こういう理由だ」と説明できない感じがあって、答えるたびに迷い、ちょっとずつ違っていたりします。でも、根っこにあるのは、「人の手の温かさ」。そして柔らかい「薪」や「炭」の「火」です。そういうもので、パンを焼きたいと思ったからです。

 

幼いころ、祖父の作業小屋では、よく焚火をしていました。学校から帰ると、祖父や大工さんが焚火の前にいて、「おかえり、寒かったな、はよ、あたり。」(早く温まりなさい)と迎えてくれました。みんなで落ち葉を集めて焼き芋を焼き、周りの人たちと食べることもありました。特別でもなく、日常の光景でした。

 

そして、すぐそばの家には祖母がいました。いつも火鉢の前に静かに座っていました。私が入って行くと、炭をひとつ足してくれました。火鉢の火は、ほんのり温かく、火鉢に手をあてると熱いお茶碗のよう、でも、じっとしていられかった私は、すぐに嫌になり飛び出していく、でも、何度も祖母のそばに行きました。

 

家では、薪で焚くお風呂でした。十代のころは、薪風呂なんて古くて恥ずかしい、シャワーのあるお風呂に入りたいとよく思いました。寒い夜に外にでて火を焚くのが嫌いで、いい加減に火をつけて、途中で消えてお湯が沸かない。追い炊きが面倒で、ぬるくていいと言って入る。でも、私がお湯に浸かるころになると、父や母が外に出て、薪を細く割り、さっと追い炊きをしてくれる。頼んでないのに、と勝手なことを言いました。大人になるまで、何度、追い炊きしてもらったか・・・。結婚式の前日の夜、追い炊きしてもらいながら、温かく沸いていくお湯の中で泣きました。

 

私の周りには、いつも温かな手と、火の温もりがありました。

 

そして、会社勤めと子育ての中では、焚火も火鉢も薪も、触ることもなくなり、実家でもガス湯沸かし器になり、便利で快適な毎日になっていました。

 

そんな中、三十代のころ、育児の困難と、病気を患い、ほんとうに辛い時代がありました。四十歳までは生きられないだろうと思い、大人になった息子たちにと手紙をたくさん書きました。友人とも距離をおき、心の底から笑うことのできなかった時代でした。

 

でも、生きていました。四十歳になり、息子たちも無事成長した。これからは、自分のやりたいことをしたい。辛かったときに何度も思い出された火の温もり、人の手の温かさを伝えられるような、石窯と薪でパンを焼いてみたい。 

そんな思いが膨らんでいきました。

 

父に相談すると一緒に石窯を作ろうと立ち上がってくれ、兄も、伯父(父の弟)も一緒に一年掛かりで石窯を作りました。

 

開業して八年、今も、毎日、その石窯に火を焚いています。誰かに伝えたいという温もりを、私が一番受け取っているのかもしれません。

幸せな仕事だと思っています。 

そして、気が付けばもう五十歳になろうとしています。奇跡のように元気で、働くことができています。

六十歳になっても七十歳になっても、薪を焚いて、パンを焼いていられたら・・・

そんな日が来るのかもしれない、と思うこの頃です。


2018.7 ゆるり店主 山本 明美